1996年のエヴェレスト大量遭難を、遠征隊の一員として体験したジャーナリスト、ジョン・クラカワー氏のノンフィクション小説『空へ:悪夢のエヴェレスト』は、読者をその場に連れ去る迫力の描写力。
心にズシンとくる1冊ですが、読み応えがあります。読後感はよくないです。
『空へ:悪夢のエヴェレスト』著者・ジョン・クラカワー氏の経歴
- 1954年 アメリカ・マサチューセッツ州の生まれ。8歳の時から父親と登山を始める
- 1980年 登山家だった妻と結婚
- 1983年 フリーライターになる。登山と他分野のテーマ記事を大手雑誌(ナショナル・ジオグラフィックなど)に寄稿
- 1992年 『エヴェレストより高い山』出版(1982〜1989年の登山関連記事のまとめ)
- 1996年 専門雑誌『アウトサイド』でエヴェレスト商業登山の実態を記事にするため、有名な登山ガイド、ロブ・ホール氏率いる遠征隊に顧客として参加した際、のちに「エヴェレスト大量遭難」と呼ばれる事故を自ら現場で体験
- 1997年 エヴェレスト大量遭難当時の状況を描く『空へ:悪夢のエヴェレスト』を出版。タイム誌のブック・オブ・ザ・イヤー受賞
参照サイト:フリー百科事典 ウィキペディア <ジョン・クラカワー> (更新日2023/01/08 12:11 UTC)(閲覧日2023/03/11)
クラカワーさんは、「エヴェレスト大量遭難」の影響で、心的外傷後ストレス障害(PTSD)に悩まされているとのこと。
けれどもジャーナリスト・作家としては意欲的な活動を継続中のようで、たとえば2003年に出版された『信仰が人を殺すとき』もベストセラーになりました。
『空へ』エヴェレスト大量遭難当事者クラカワー氏が追求した事実関係
1996年5月10日、協力し合ってエヴェレスト登頂を目指した2つの遠征隊は、なぜ大量遭難の事故に巻き込まれたのか?
この疑問を明らかにするために、本書には1996年の春、同時期にエヴェレスト登頂を目指したロブ・ホール隊/スコット・フィッシャー隊/台湾隊/南アフリカ隊を主とするグループ間の人間関係その他諸々も、綴られています。
しかし焦点となるのは、著者のジョン・クラカワーさん自身がメンバーだったロブ・ホール隊と、もうひとつのスコット・フィッシャー隊の登頂行程で発生したミスについてです。
ミスに関する記述は、ジャーナリストであるクラカワーさんの体験と、生還者たちへの取材結果に基づいています。
エヴェレスト大量遭難:ホール隊とフィッシャー隊の構成
【ロブ・ホール隊】4名のガイド(2名死亡)と8名の顧客(2名死亡)
【スコット・フィッシャー隊】4名のガイド(1名死亡)と9名の顧客(死亡者なし)
両グループの筆頭ガイド、ホール隊長とフィッシャー隊長は死亡。
ホール隊の一員だった難波康子さんは、エヴェレスト登頂により日本人女性として2人目の「7大陸最高峰登頂者」の偉業達成後、下山途中で命を落とされました。
1996年エヴェレスト大量遭難:ホール隊とフィッシャー隊のミス
著者クラカワーさんの体験と取材から明らかになるのは、人為的なミスの連鎖が、突然の猛吹雪到来で大量遭難の原因になった経過。
特に深刻な影響を与えた原因は、
- 「下山時の定刻厳守」の約束が徹底されなかった:
例)「14時になったらたとえエヴェレスト頂上が目前でも下山必須」 - 各自が自分の健康状態に適した状態の登山をする:
例)ガイドも顧客も、自分の体力的な限界を感じたら、速やかに下山すべし
の2点。
クラカワーさんの描写からわかる具体的な問題点を、以下にまとめてみました。
記述するだけで、胸が痛みます。
1996年エヴェレスト大量遭難のミス要因①難所の固定ロープ
両チームのシェルパ2名で難所「ヒラリー・ステップ」に装着する予定だった固定ロープが準備されないまま、参加者たちが現場に到着。
→ 作業終了まで、高所で長い待ち時間が発生してしまう。
1996年エヴェレスト大量遭難のミス要因②有名人の特別待遇
フィッシャー隊の顧客で、エヴェレスト登頂の様子を現地からインターネットで配信していた有名人のサンディ・ヒル・ピットマンさんが体力消耗するも、宣伝効果のある彼女の登頂成功のためにシェルパがかかりきりでケア。
→ このシェルパが、ヒラリー・ステップのロープ固定役を担当していた。
1996年エヴェレスト大量遭難のミス要因③ガイドの無酸素登頂
無酸素で登頂したフィッシャー隊のガイド、ブクレーエフさんは、参加者たちのアテンドをせずに自分のペースで下山。
→ 山頂への経路に残されたガイドたちへの負担が増加。
また、この年初めてガイドに雇われたブクレーエフさんは、「素人が最高峰登山などするべきではない」という考えの持ち主だったので、彼が遂行しない仕事分担を、雇用者であるフィッシャー隊長が代行することが多かった。
→ 強靭さが有名だったフィッシャー隊長の体調が崩れた要因か?
今回の記事でご紹介している本『空へ(クラカワー著)』での、自分の行動描写に不満を感じていたブクレーエフさんは、『デス・ゾーン8848M―エヴェレスト大量遭難の真実』という本を出版し(日本語版1998年)、あの悪夢での体験をご自分の視点から語っています。
英語版の『デス・ゾーン8848M』が1997年に出版された6週間後に、ブクレーエフさんはアンナプルナで雪崩に巻き込まれて、遭難死。
意見の食い違いがあったクラカワーさんは、『空へ』の後記で、和解には遅すぎた状況についてコメントしています。
1996年エヴェレスト大量遭難のミス要因④フィッシャー隊長の行動
当日体調不良だったフィッシャー隊長は、予定時間(14時ごろ)より大幅に遅れていた15時20分に、登頂で彼を待ち続けるも、参加者の安全を図るために下山を開始した自分のガイド、ベイドルマンさんと顧客一行に、山頂近くの経路で遭遇。
→ しかしフィッシャー隊長は、彼らと一緒に下山するどころか、ひとりで登頂。下山中さらに体調を崩し、救助要請(その後死亡)。
1996年エヴェレスト大量遭難のミス要因⑤ホール隊長の情け
昨年登頂不成功に終わった参加者・ハンセンさんに2年続きの頂上目前の撤退を言い渡せなかったホール隊長。
ハンセンさんは他の参加者と違い、あまり金銭的に余裕がなかったため、再挑戦は困難だと知っていたホール隊長は、下山予定時刻より90分以上遅れた状態での登頂を認めてしまう。
→ 登頂に成功したものの、疲労困憊したハンセンさん(滑落)とガイド(遭難)と共に、ホール隊長も頂上付近で動けなくなり、救助要請(その後死亡)。
1996年エヴェレスト大量遭難のミス要因⑥疲労困憊で救援不能
猛吹雪の隙を縫って、キャンプに自力で帰還できたメンバーが、山に残された人たちの救助を要請するが、悪天候のなか救援に向かえる体力があったのは、ガイドのブクレーエフさんのみ。
ブクレーエフさんは、自分が属するフィッシャー隊の顧客3名の救援に成功したが、ホール隊の顧客2名は救援できないまま、キャンプに帰還。
→ その場に残された難波さんは、残念ながらその翌日絶命。
現場に残されたもうひとりの顧客、ウェザーズさんは、ツアー参加者だった医師が生存できる見込みなしと判断した数時間後、奇跡的に自力でキャンプに帰還を果たし、2001年に『生還』という本を出版。
『空へ:悪夢のエヴェレスト(ジョン・クラカワー著)』私の感想
「同じ出来事を報告する人の体験と記憶は、完全には一致しないのが当然」ということを、私は臨床心理学を学んだ過程で何度も目にしました。
ですから、たとえジョン・クラカワーさんが有名なジャーナリスト兼ベストセラー作家で、エヴェレスト大量遭難を現場で体験した人であっても、「取材した情報と体験を一個人の視点で描写した本なので、その点気を抜かずに読もう」と、私は考えていました。
そのせいか読書中、いくつかの場面でジョン・クラカワーさん自身の行動に、違和感を感じる点もあったのです。
たとえば、「ガイドと顧客の契約書」についての解釈。
登山のプロであるガイドに対して、顧客は受け身の立場なので、常にガイドの指示待ちであったがために、グループの問題を解決する積極的な行動ができなかった(例:固定ロープを貼るサポート)という点。
そうかと思えば、自己判断で先に進むという「意思」をガイドに積極的に顕示する場面など(例:ロープ固定作業終了を待たずにひとりで登頂/登頂後、ボンベの故障による低酸素で混乱していたと思われるガイド、ハリスさんの奇妙な行動に反論せぬまま下山)では、「顧客」の立ち位置が、やや都合よく使われていると、個人的には思いました。
結局遭難死したハリスさんの件で、クラカワーさん自身もすぐに責任放棄したご自分を責めていらっしゃる記述が、本書にもあります。
けれども憧れのエヴェレストで、自分自身の能力限界を忘れてしまう登山者が多発するなか、著者のクラカワーさんは、常に「自分の安全域を超えない限界」を意識した冷静沈着な行動を取っていたとも言えるわけで、クラカワーさんの判断を誰も責めることはできないとも思うのです。
なにしろ、自分の命がかかっている状況ですものね……。
実話なだけに、読書終了後も心にズシンとくる重い内容ですが、『空へ:悪夢のエヴェレスト(ジョン・クラカワー著)』は、読み始めたら止められない本。
また、専門用語や外国語の表現が多発する文章を、登山界の知識に欠ける読者にもわかりやすい表現で日本語訳なさった海津正彦さんの翻訳もお見事だと、ドイツ語圏で生活している私は脱帽!
とても読みやすい、なめらか日本語表現が素晴らしいです。
それにしてもなぜこうまでして、ヒトは山に登るのでしょうか。
「そこにあるから」だけでは、納得のいかない読後感を、スイスアルプスを眺めながら感じています。