『安楽死を遂げるまで(宮下洋一著)』を読んで:スイス在住・私の感想

読書感想

『安楽死を遂げるまで(宮下洋一著)』は、スイス・オランダ・ベルギー・スペイン・アメリカ・日本における安楽死事情をテーマにした本。

安楽死を幇助している医師、安楽死を選んだ本人と家族、そして自分自身の心の揺れを、欧州在住のジャーナリストである宮下さんが、きめ細やかな取材を通じて、赤裸々に綴る良書です。

スイス在住四半世紀以上になる私の個人的な見解つきで、感想を綴りました。

【スイスにおける自殺幇助】法律と自殺幇助団体の定義

【スイスにおける自殺幇助】法律と自殺幇助団体の定義

自殺幇助は、「医師から与えられた致死薬で、患者自身が命を絶つ行為」を指す。

引用元:『安楽死を遂げるまで(宮下洋一著)』p.10

海外からの自殺幇助希望者も受け入れているスイスですが、実は安楽死は合法ではありません。

スイス刑法第115条では、「利己的な動機」による自殺幇助は禁じられています。ただし、苦しんでいる人を救うための「利他的な動機」による自殺幇助であれば違法ではないと、寛容な解釈が行われているのです。

ですから、スイスにある複数の自殺幇助団体では、患者自身が致死薬を体内に取り入れる方法が用いられています。

このように、スイスでの自殺幇助は合法化されていない段階のため、各団体の判断基準も統一されていませんが、自殺幇助が許可されるための条件は、共通しています。

  • 自殺幇助団体の会員登録をする(一部の団体では外国人でも入会可能)
  • 耐えられない痛みがある
  • 回復の見込みがない
  • 明確な意思表示ができる
  • 患者が望む治療手段がない
  • 医師2名が病状を診断

スイスの自殺幇助容認:主軸は「自己決定権」と「人間関係の希薄さ」

スイスの自殺幇助容認:主軸は「自己決定権」と「人間関係の希薄さ」

スイスという国が、国内だけではなく、海外からの自殺幇助希望者も受け入れている背景には、

  • 何事においても「自己決定権」が尊重される社会の仕組み
  • 「希薄な人間関係」を好む文化的な特徴

の2点が、大いに影響していると思われます。

スイス社会で全能の「自己決定権」が自殺幇助の主軸

スイス社会で全能の「自己決定権」が自殺幇助の主軸

直接民主主義国家であるスイスでは、「国の主権者は国民」。

スイスは、国民が自らの決定権(つまり自分の意見)を用いて、国の政治問題に直接関与できる仕組みの国なのです。

国民発議権(イニシアティヴ)とレファレンダム(国民投票による法案審議)を軸にする政治システムで暮らすスイスの人たちは、「自分の決定権が持つ重み」を常に意識していると言っても、過言ではありません。

このように、「個人の意見」を尊重するスイスの政治背景があるからこそ、人の死に方も、自己決定に基づく判断が最重要視されているのだと、スイス在住四半世紀以上になる私は思うのです。

関連サイト:スイス連邦公式サイト <直接民主制>(更新日2021/07/14)(閲覧日2022/10/18)

自己決定のみで家族の意思は尊重されない自殺幇助:著者の困惑に共感

自己決定のみで家族の意思は尊重されない自殺幇助:著者の困惑に共感

作中、自殺幇助で最期を迎えるために、スイスを訪れたアメリカ人女性のエピソードがあります。

自殺幇助に反対していた父親に、行き先を告げぬままスイスへやって来たというアメリカ人女性。そんな彼女にスイス人医師は、「父親に報告しなければ、幇助はしない」と、告げるのです。

父親が反対でも、報告さえすれば自殺幇助を遂行するというスイス人医師の態度に、疑問が湧く著者・宮下さん。

ところがスイス人医師は、「患者が成人しているのだから」と、発言するくだりがあります。

成人であれば、自己決定のもと、家族の意思を無視してもいいのか。

引用元:『安楽死を遂げるまで(宮下洋一著)』p.122

とつぶやく著者・宮下さんのお気持ちは、スイスの日常生活で自己決定権の全能パワーを体験し、困惑することもしばしばの私に、手に取るように伝わってきました。

著者の宮下さんはプロフィールによれば、18歳まで日本で過ごした後、海外の大学で学び、欧州に拠点を移されたジャーナリスト。

私も日本育ちで、アラサーでスイスに移住したので、個人社会でのサバイバルに必須な「自己の確立とそれに伴う自己決定」を学ぶ必要があった日本人として、同じような違和感を感じるのかもしれません。

いつどんな時でも「自己決定権」がまかり通るスイス社会の仕組みに、私が違和感を覚えた例は、コチラ↓の記事に綴りました。

スイス社会の人間関係は希薄:友人に適用される「同僚」という表現

スイス社会の人間関係は希薄:友人に適用される「同僚」という表現

皆さんは、「同僚」という言葉から、何を思い浮かべますか?

【同僚】
職場が同じである人。また、地位・役目が同じである人。

引用元:コトバンク 出典 小学館 デジタル大辞典 <【同僚】>

日本語では、同僚というのは偶然同じ組織に属した人を表す言葉で、特に仲の良い関係を意味する言葉では、ありませんよね。

ところがスイスでは、気の合う友人関係を築いているお相手のことを、「同僚(Kollege/Kollegin)」と表現するのが一般的。

「友人(Freund/Freundin)」という言葉が用いられるのは、恋愛関係にあるお相手を指す場合に限ります。

「友人なのに、なぜ同僚呼び?」と、疑問を感じる外国人は、スイスで少なくありません。

「私は仲良しのつもりなのに、『同僚』って、ものすごく距離を置かれて、突き放される感じ」と、スイスのお隣・ドイツ出身の大学の同期たちも、よく口にしていました。

集団主義の日本と比べると、個人主義のヨーロッパ各国はどこでも、自分自身または核家族のみに重点を当てる生活形態。

けれども、友人全員を「同僚」とひとくくりにするスイスの習慣には、他人との付き合いだけではなく、家族間でも非常に希薄なスイス社会における人間関係が象徴されていると、私は思うのです。

人の最期は誰のもの?文化的環境が影響する個人/集団の権利

人の最期は誰のもの?文化的環境が影響する個人/集団の権利

安楽死というテーマを、欧米と日本の観念で比べると、

  • 欧米人:自分らしく人生を終えるため
  • 日本人:他人に迷惑をかけないため

という意見が主流派のよう。もちろん、ステレオタイプの分類なので、当然ながら例外もありますが。

取材を通じ、自殺幇助を受けた欧米人患者から「家族意識の希薄さ」を感じ取った著者・宮下さんが、

集団に執着する日本には、日常の息苦しさはあるが、一方で温もりがある。

引用元:『安楽死を遂げるまで(宮下洋一著)』p.144

と表現している点も、長年のスイス生活と日本の比較で同様の差を実感している私には、納得の内容。個人対集団、どちらの文化形態にも、長所と短所がありますからね。

自殺幇助を最期の手段に選んだ患者さんたちが、温かみのない家庭にいたと主張しているのでは、ありません。

自分の死に方を自分で決める際に、どこまで家族のつながりが、その判断に影響を与えるのか?

集団主義で見られる、つながりの深い家族の支えがあれば、死に方ではなく、「最期の時までどのように生きるのか」、その生き方に焦点が当たるのではないかという疑問が、宮下さんの本を読んだことで、私の頭に浮かんだのです。

その私の疑問を象徴するかのような、NHKによるコチラ↓の動画。なんて素晴らしいご家族の形。そしてなんと温かい医師と患者の信頼関係。

https://youtu.be/FtUJeyvE9JQ

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『安楽死を遂げるまで(宮下洋一著)』は、死に方と生き方について、私たち自身が考えあぐね、自分なりの結論を出すために、とても有益な情報を与えてくれる本です。

若年性のアルツハイマーを発症した私たち夫婦の友人が、安楽死ではなく、生きる決意をしたことで揺れ動く心情を綴った記事は、コチラ↓です。

・・・そして、私自身の遺骨をどうするべきか、というテーマを取り上げた記事は、コチラ↓。

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