日本被団協のノーベル平和賞受賞を機に、『はだしのゲン わたしの遺書(中沢啓治著)』を再読。
自らの被爆者人生を赤裸々に綴った体験記が、戦争のない世界を実現する力になることを祈ります。
『はだしのゲン わたしの遺書』著者・中沢啓治さんのプロフィール
- 1939年生まれ、広島県広島市の出身
- 1945年8月6日、小学校1年生のときに広島で被曝。本人は奇跡的に助かるも、原爆で父、姉、弟を失い、原爆投下日に誕生した妹もその4ヶ月半後に亡くなる
- 1961年、漫画家のアシスタントになるため上京。自身の漫画作品も複数発表
- 1966年、母が亡くなった際の体験から、初めて原爆を題材にした漫画『黒い雨にうたれて』を描くが、掲載先の出版社が見つからない時期が続く
- 1968年、「漫画パンチ(芳文社)」で『黒い雨にうたれて』を発表。高評価を得て、被爆者の生活を描く「黒いシリーズ」を描くなど、漫画家として活躍の場を広げる
- 1973年、前年の「別冊少年ジャンプ」漫画家自伝企画での作品がきっかけとなり、中沢氏の被曝体験に基づく『はだしのゲン』の連載を「週刊少年ジャンプ」で開始
- 2009年、白内障のために漫画家引退を表明
- 2012年12月20日(中沢氏が肺がんのため逝去した翌日)、『はだしのゲン わたしの遺書』発売
『はだしのゲン』は2024年の時点で25ヶ国語に翻訳され、現在までに、単行本・実写映画・アニメ映画・テレビドラマ・講談・舞台など、さまざまな形で作品化されているそうです。
中沢さん亡き後も、『はだしのゲン』は平和の大切さを次世代に伝える大切な役割を、世界中で担い続けています。
『はだしのゲン わたしの遺書(中沢啓治著)』あらすじ
原爆投下時点で小学1年生だった著者の中沢さんが、8月6日に広島で被曝した時点から地獄絵図のような環境で生き延び、のちに漫画家として成功、肺がんで逝去されるまでに被爆者として体験した出来事とその時々の心情を、赤裸々に綴った本です。
『はだしのゲン わたしの遺書(中沢啓治著)』アマゾンのサイトリンク
『はだしのゲン わたしの遺書(中沢啓治著)』著者のメッセージは?
本書で中沢さんが発しているメッセージには、2つの重点があると思います。
① 被曝体験者だけが知る核爆弾の破壊力と、だからこそ必要な核兵器撲滅・戦争回避
ぼくは、「原爆をあびると、こういう姿になる」という本当のことを、子どもたちに見せなくては意味がないと思っていました。原爆の残酷さを目にすることで、「こんなことは決して許してはならない」と思ってほしいのです。
引用元:『はだしのゲン わたしの遺書(中沢啓治著)』 第七章 『はだしのゲン』誕生/ゲンは、ぼく自身
「戦争は人間のもっとも愚かな業」というのが僕の持論です。
戦争はきっと、忘れたころにまたやってきます。そのためにも、戦争があったら、核兵器が使われたら、どんな事態になるかを知って、それを阻止する力を結集しなくちゃいけないと思っています。……(省略)……「人類にとって最高の宝は平和です」
引用元:『はだしのゲン わたしの遺書(中沢啓治著)』 第八章 肺がん/右肺切除
② どんなに辛いことがあっても、明るく前向きに、強く生き抜いてほしいという願い
「ふまれても ふまれても たくましい芽を出す麦のようになれ」……(省略)……
みなさんも、ふまれても、ふまれても、たくましく芽を出す人間になってほしいと思います。大丈夫。人間とことん落ち込むと、まるでそれに反比例するかのように、「なにくそ」と負けない力がわいてきます。
ぼくたちには、きっと、負けない「麦の精神」があるのです。
引用元:『はだしのゲン わたしの遺書(中沢啓治著)』 第八章 肺がん/わたしの願い
本全体に、中沢さんの胸にくすぶり続けた原爆(そして人間の残酷さ)への「怒り」が、さまざまなエピソードを通じて記されています。
それでも中沢さんが強調しているのは、人のネガティブな性質ではなく、ポジティブな面。
誰にとっても困難はつきものの人生を、中沢さんのお父さまの口癖だった「たくましい麦」のように、前向きに、強く生き抜いてほしい、いや、生き抜けるはずだというメッセージは、極限状態を生き伸びた中沢さんが発信者だからこそ、読者の胸に突き刺さる内容だと私には思えるのです。
『はだしのゲン わたしの遺書(中沢啓治著)』最も印象に残るエピソード
中沢さんの被曝者としての経験は、どれも壮絶な内容で、戦争を知らない世代にとっては、想像を絶するものばかり。
被曝当日とその直後だけではなく、戦後何十年経っても被爆者を傷つける「原爆への怒り」は、中沢さんのお母さまのご逝去(1966年)を機に、中沢さんが原爆漫画を制作するエネルギーに転化されます。
原爆漫画の第1作が、のちの『はだしのゲン』連載に結びつくまでの過程で、中沢さんには2人の雑誌編集長との出会いがありました。
- 「漫画パンチ(芳文社)」の平田昌平編集長
原爆漫画第1作『黒い雨にうたれて』を、米国の妨害(CIAによる逮捕など)覚悟で発表し(1968年)、被爆者がテーマの「黒いシリーズ」につなげる - 「少年ジャンプ(集英社)」の長野規編集長
まだ新人漫画家で、作品内容も当時の王道作品とは異なっていた中沢さんを支持し、『はだしのゲン』誕生に導いた(1973年連載開始)
「たくましい麦」の中沢さんによる原爆漫画が、日の目を見るために必要だった土壌を、自らのリスク覚悟で与えたふたりの雑誌編集長とのエピソードは、「原爆に負けてたまるか」という中沢さんの生命力が手に入れた、運命的な出会いだと感じました。
『はだしのゲン わたしの遺書(中沢啓治著)』私の感想
中沢さんも本書で指摘していますが、原爆が投下された日本の出身でも、広島・長崎以外の多くの人々は、原爆の恐ろしさを漠然と把握しているだけ……というのが現実ではないでしょうか。
かくいう私もそのひとりで、広島の原爆資料館訪問で衝撃を受け、その後読んだ『はだしのゲン』や本書により、初めて原爆の破壊力を認識しました。
原爆が被爆者に刻みつける「恐怖」、たとえば原爆の後遺症が自分や子どもに出るかもしれないという恐れが常に付きまとっていることや、罪のない被爆者への差別を社会生活で体験したという事実は、読者の胸をえぐります。
平和教育も中立性の維持が大事との姿勢から、『はだしのゲン』が広島市の教育副教材から削除されましたが、日本被団協が2024年度のノーベル平和賞を受賞した今だからこそ、被爆者しか知る由もない経験談を次世代に伝えることが、戦争のない世界を実現するために必要なのではないかと、私は思います。