森瑤子さんに乾杯

エッセイ

1980年代を駆け抜けるように執筆していた小説家・森瑤子さんは、私の青春時代に彩りを与えてくれた、想い出の作家。

森さんが、天国に旅立たれてから長らく経ちますが、今日は森さんのお誕生日。
奇しくも今日、久々に森瑤子さんの本を手にして気づきました。

♪Happy Birthday♪ 天まで届け、私のメッセージ。

本フェチの私、スイスだけではなく本屋さんでも毎回漂流してしまう

本屋

私は、本フェチ。

毎日の読書はもちろんのこと、ちょっとした隙間時間も、本を読まないと落ち着かない。

牛乳の買い置きがないことに気づき、最寄りのスーパーマーケットまでひとっ走り、なんてとき以外は、いつ・どこに出かける場合でも、バッグの中に本を忍ばせている。

空港にある本屋さんには、磁石に引き寄せられるかのごとくフラフラと立ち寄り、予想外(いや、毎回のことだから、予想通りと言うべきか)にかさばる本を、数冊購入してしまう。
これから旅に出るのに、本の衝動買いで余計な荷物を増やしてしまった自分を悔やむ反面、どの本から読み始めようかとワクワクする気持ちは、私にとって旅に欠かせないエッセンスなのだ。

旅先で本屋さんを見つけたときにも、いてもたってもいられない。

私が贔屓にしているお店とは、ひと味ちがう書店内に足を踏み入れると、静かな興奮が私を包む。そして毎回、数時間は書店の中で漂流し、超過手荷物を増やす羽目になる。

コロナ前、娘と日本をほぼ縦断する長旅をしたときには、訪れた各地で書店と郵便局の間を渡り歩き、まるで本の運び屋のように、購入したばかりの本を小包に詰め、せっせとスイスへ送り続けた。


ここまで綴ってから、私がスイスに漂流することで、失ったものの価値を改めて知り、力が抜けてきた。

どうして、スイスのベルンで初の日本語書店をオープンすることを思いつかなかったのかしら・・・。

でも、私はおそらく、世界でいちばん役立たずの本屋さんになりそうだ。お客様より、自分が立ち読みすることで、時間を忘れてしまうにちがいない。


注:「なぜ電子書籍を買わないの?」と不思議に思った方がいらっしゃるかもしれない。

例えばアマゾンでは、基本的に海外在住者は電子書籍の購入ができない/かなり制限されているのだ。

私の状況は、購入不能のケースに当てはまるので、キンドル・ヘビーユーザーの私は、電子書籍に手が出せないのが現状。

もちろん、海外在住でも電子書籍が買えるショップもあるが、PCやスマホではなく、キンドルで読みたいの(ごねて、どーする)。

森瑤子さんの本と私が出逢ったきっかけ

原稿用紙とメガネ、モンブランの万年筆

私の本フェチは、子ども時代に始まったので、1978年に「情事」ですばる文学賞を受賞された森さんが、1980年代に大活躍されていた当時、私はいろいろな書店の常連客だった。

なかでも、私がもっとも頻繁に立ち寄っていた本屋さんでお仕事をしていたスタッフとは、少なくとも毎週2回は顔を合わせていたので、次第におしゃべりするようになった。

読書好きにとって、お仕着せがなく的確に、客の好みにあった「面白い」本をオススメしてくれる本屋さんのスタッフに出会えることは、流れ星や四つ葉のクローバーを見つけたとき以上の至福だと思う。

気に入っていた本屋のひとつで、レジで支払いのときに「○○の本が好きなんですか」などと唐突に、だが馴れ馴れしく声をかけられ、げんなりしたことがしばしばあった私だが、贔屓にしていた書店で出逢えたスタッフは、客に対応するさじ加減がすばらしい、スーパー本屋さんだった。

この「スーパー本屋さん」のおかげで、20代の私の読書ライフは、とても充実したものとなった。

あるとき、「スーパー本屋さん」のいる書店に来たというのに、読みたい本が1冊も見つからなくて、私が困惑していると、彼女は口にした。

「お客様の読書テンポと同じ速さで小説を書いているのは、この小説家だけ」と笑い、勧められたのが森瑤子さんの本だった。

私の心の奥深くに息づく森瑤子さんの小説

たくさん舞い散る赤いハート

私は渋好み ー好きな作家は、遠藤周作/山本周五郎/松本清張/山崎豊子ー なので、きらめく表紙に包まれた森瑤子さんの本を、このときまで食わず嫌いしていたのだが、森瑤子さんがしたためた文章に、すぐ惹きつけられた。

初めは、大人の恋愛アバンチュールを扱うだけの小説と誤解したのだが、退屈で息の詰まる日常から、ときめきだけを掬い上げ、軽やかな文章の合間に苦味・失望・喪失感、そしてあきらめを、あれほど上手く織り上げて世に放った小説家は、森瑤子さん以外にはいない、と思う。

本音を言えば、森瑤子さんの小説の深さがわかったのは、私が大人になってから。

ときどき、20代の頃、あれほど森瑤子さんの小説を読んだ経験が無意識のうちに私を動かし、スイスへと彷徨ったことのきっかけになったのかしら、と思うこともある。

娘と私の日常で、時折声を上げる森瑤子さんのエッセイ

私の生活は、森瑤子さんが創り上げていた「きらめきの世界」とはほど遠いので、小説のような「めくるめく体験」に結びつくことには、まったく縁がない。

けれども、森さんがご家族との日常を綴っていた「ファミリー・レポート」と重なることは、私の退屈な日常に、しばしば起きる。

その度に、森瑤子さんが私の心の中で笑う声が、聞こえる気がする。


私の娘が「ハーフ」ではなく、「私はダブル」と口にしたとき。

スランバーパーティへ出かけた娘がお泊まりするはずだった友人宅の母親からわが家に電話があり、お友だちと娘の居所がつかめず、真夜中にあわてたとき。

海が美しいトルコだからと、お魚料理を注文する前、森さんと同じ体験をしないで済むように、料理の値段を確かめたとき。

娘の口車に乗せられて、旅行先でなぜか彼女のボーイフレンドへのお土産まで一緒に買う羽目になり、苦笑したとき。

そして、大切な人への手紙をしたためる際、モンブランの万年筆のキャップを開けるとき。


そんな何気ない日常のひとときに、私は森瑤子さんのエピソードを思い出している。

私が想像する、天国の森瑤子さんの日常

天国

天国の森瑤子さんは、大物たちが催すパーティーに次々と顔を出し、ひしめくあう人の波を泳ぐように、すごされているにちがいない。

ヴァイオリニストだった森さんのことだから、モーツァルトと意気投合して即興コンサートをしているかもしれない。
そして、観客にウインクを投げ、お祭り騒ぎを立ち去った後は、ショーペンハウアーと人生についてしみじみと語り合う、森瑤子さん。
しかし彼の元を去ると同時に、ハロッズの外商に連絡を入れ、1ダース分のオシャレなネクタイをショーペンハウアーへ届けるよう、森さんなら注文しているかもしれない。


私のささやかなメッセージが、天国の森瑤子さんに届きますように。

Happy Birthday♪ 

青空に、色とりどりの風船
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